staf’s diary

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物を処分する際に考えるべきただひとつのこと

現在、部屋の物をどんどん処分している。古くなった棚だとか着なくなった服だとかだ。どの種類のゴミで出せばいいのかわからないがために放置していた物もだんだんと数を減らしている。

以前投稿したように部屋が汚くなる原因は物が多すぎることだ。だからこそ物を減らせば(少なくとも以前よりは)綺麗になる。とはいえ、人からの頂きものや自分の好きな作家の本なんてものはなかなか処分しずらい。だからこそプレゼントする物はできるだけ邪魔にならないような物の方がいいのかもしれない。

そういう意味で物を減らす際に考えるのはただひとつ「それはどれぐらい触っていないか」だ。もし10年も触っていない物があればそれがなんであれ(もちろん上記の類なら除外するべきだ)、どれだけ高価であっても処分しても問題はない。ここでは10年と表現しているが別に1年でも5年でも20年でも構わない。文字通りひとそれぞれで、ケースバイケースなので、自分で決めてそのルール守るだけでいい。何年であろうともこれまで使用してこなかったのだから、これからもまず使用することはない。いつか使うかもしれない? いつかはいつかだ。少なくとも今ではない。

まだ使える物を捨てるのはもったいないなんて思考をしている人がいるかもしれないが、その場合はその物が空間を占拠しているという当たり前のことを思い出すべきだ。それがなければ、そこにそれと同じだけの大きさの何かを置くことができる。それに自宅とは自分のプライベートな空間で、その空間を自分好みのインテリアや綺麗にすることは自分の人生のプラスになる事はあっても、決してマイナスになることはない。それでもなおあなたはもったいないとか使うかもしれないとか発言できるのだろうか。

お題「花粉」

お題「花粉」

そろそろ今年も花粉が収まってきたと思いきや、連日の強風でヒドい目にあった。強風だとマスクが風でズレるどころか隙間ができてしまい、そこから花粉を吸引してしまったのだろう。そうでなくても色々と問題が発生するので強風はできるだけやめてほしいものだ。

極論

極論という言葉がある。

kotobank.jp

私はこの極論が実は好きだ。

極論は極端な論のことだが、逆に考えればそれより内側のマイルドな論はありえるわけだし、あなたが極論をもし誰かに伝えてその誰かに否定されたら、その否定した誰かは少なくともあなたのその極論よりマイルドな論を述べなくてはならない。言わないのであればその否定はその極論に述べたのか、それとも発言したあなたを否定したのかがわからなくなってしまう。もしくは何に対しても否定する種類のヒトを判別するのに使えるかもしれないが、そんなヒトはそんなことをしなくてもわかるはずだ。

それに上の考え方を利用することも可能だ。仮にダイエットをする際にあえて「ひと月で40kg減量する」と極論をまず作り上げ、少しずつ削っていく。もしくはマイルドにすると表現した方が理解しやすいかもしれない。結果として「半年で5kg減量する」となったとしても、それは悪いことではない。これまで存在しなかった計画をあなたがつくりあげたのだから、それは紛れもない前進だ。そのまま前に進めばいい。

子供にスマートフォン

子供にスマートフォンを預け、それでおとなしくさせている親を見かける。むしろ成長すれば嫌でもディスプレイを見る時間が増えるのだから今だけでも見せないようにするべきではないだろうか。

しかし、だからといってそうしている親だけを責めてはいけない。スマートフォンを与えるのは子供をおとなしくさせるためかもしれないが、そもそも子供が癇癪を起してもそれに寛容な世の中になればいいのではないだろうか。

blog.livedoor.jp

井上純一氏も自身のブログで「中国の人たちは、子供にものすごく寛容なのです。常々見習いたいと思ってる美点です。」と述べている。

「どうせ受かるはずがない」なんて言葉は聞く必要はない

今私は試験の勉強をしているが、そのことを言うと「どうせ受かるはずがない」、「お前なんかにはふさわしくない」などとわざわざのたまう奴原がいる。そういう連中の言葉に耳を傾ける必要はない。それがたとえ親とか家族といった間柄でもだ。

試験を受ける以上少なくとも受かる見込みがあるから受けるのだし、その確率を少しでもあげるために勉強やら実技に励むものだ。仮に上記の言葉がその世界の第一人者の言であるなら一考する価値はある。しかし、その世界のことを自分より理解していないヒトになぜ否定されなければならないのか。

なんにせよ、あなたのまわりにそういう発言をするヒトがもしいれば、警戒しておいたほうがいい。否定の言葉を言う連中は無意識にあなたに上に進まれるのを嫌っているか、あなたのことを見下しているかのいずれかもしくはその両方の思考をしているからだ。「君子危うきに近寄らず」――この言葉は今の時代でも十分通用する。